精神分裂病の治癒の為に精神療法を疑問視するなら、治癒の目標を達成する間接的(但し病理学的には正道であろう)方法として、両者の共働によって、病因、治療法の変革を期待する道であろう。
「諸々の関連を検査してゆくときは、意識外の機構という理念的観念にまでゆくことが必至であり、最後に多くの場合に心的現象の遠因として身体的なものをつかめるような過程に至るわけになる。」「精神的事象の原因を知るには身体的機能殊に神経系の生理学の知識を欠けない。それ故、神経学と内科学と生理学とは精神病理学に一番大切な補助学である」「精神的なものと身体的なものには否定し難い緊密な統一があるわけであるが、この二系列の検索をみるときは、一つの精神的事実を一つの身体的事象に従属させるとか、両者の間に並行関係があるというようには決していかない」「神経学の知見によって、___失語、失認、失行の理論においてはその研究行路の最高峰に達したが、それでも進めば進むほど精神的なものはいよいよ退いてゆくように思われる。」「精神病理学は精神的なものを意識の限界まで追求するのであるが、たとえば、ひとりでに現われる「自生的」妄想、情緒、幻覚のようにこの境界にある現象については、直接従属した身体的事象が少しでも見出せない。結局、「身体的変化を調べる際には精神的原因を忘れず、逆の場合もまた同じだということを忘れぬのが肝要である。」(上巻P.4〜6)
イ、ヤスパースの現象学の特徴
他人の心の現象了解に、彼は自然科学的客観性をみとめてはいない。「心的現象を因果的、自然科学的に把え得る現象と区別し、精神の独自性を明らかにした」(村上仁、異常心理学)と評価されている。
ヤスパースの見解:「現象学なる言葉はヘーゲルによって___、我々はこれを個人的な心的体験というずっと狭い範囲に対して用いる。フツサールはこの言葉をはじめ意識現象の「記述的心理学」に対して用いたが、後にはしかし、‘本質諦観’に対して用いた。我々はここで、これをおこなうのではない。現象学は我々にとって経験的處置であって、患者の側からの報告という事実によってのみおこなわれる。こうした心理学的実行法である以上、自然科学的記述におけるのと別なことは明らかである。即ち、対象はそれ自身我々の眼前に感覚的に存在するのではない。心に描き出すことだけが経験なのである。」又、精神科学に於いて了解の営みの客観性を否定したのである。そのような科学が「もはや決して真の抱括者でないところの抱括者注14をみているからである。
注14
ヤスパース、理性と実存 草薙正夫訳、河出書房新社(昭和38年)
|
|