本多 一也のホームページ
論文1「Allgemeine Psychopathologie」(Jaspers,K)について
<Subtitle>分裂病の治癒可能性に焦点をおいて

HOME
論文1 Top Page (序文)
1、分裂病の治癒可能性に対するヤスパースの見解
2、分裂病は脳病か
 イ、ヤスパースの見解の概要
ロ、疾患単位を理念とする研究の概要
ハ、疾病学に限局した場合の科学的背景
3、分裂病の症状の心理学的理解の可能性について
 イ、ヤスパースの見解の概要
 ロ、分裂病に於ける精神療法の可能性
4、精神病理学と脳病理学の共働の道
 イ、ヤスパースの現象学の特徴
 ロ、真の理論と精神病理学の理論
 ハ、両者の共働の今日的意義
 ニ、分裂病の脳所見解明後の問題
5、治癒過程考察の欠如について(ヤスパースの)

おわりに
参考文献
序 文

ヤスパースには分裂病が治癒不可能であることに固執している節がある。但し、分裂病が脳の病的過程だ、と断言してはいない。それは彼の科学論に依る。だが彼の分裂病に対する了解心理学的立場は、分裂病者に何等かの宿命を負わせていると考えるざるをえない。恐らく彼は心理学的理解は不可能であると考えたのであろう。ところで、私はそれ等の論拠を述べたあとで、分裂病の治癒をつきつめることを念頭におきつつ、了解精神病理学の発展の可能性を探索した。すると次の二つの考えが得られた。一つは、精神病理学と脳病理学の共働であり、もう一つは治癒過程の考察の欠如である。

 本論文では、具体的な分裂病者の人間像にはふれない。しかし、現実の分裂病者の治癒への期待がこの論文を貫く情調であるといってよいかと思う。私は分裂病の個々の症状と分裂病の全体像を念頭においていなければならないはずである。そこで次のニ点に関して釈明しておくべきだろう。即ち第一に、分裂病の個々の精神症状の理解の可能性、第二に分裂病者の全体像の理解の可能性。第一の点についての釈明:方法は、ほとんど文献による(現象学的記述。合理的な解説。生活歴、家族の状況、症状の変貌過程の要約等。)大きな限界は、第一に、体験のないこと、第二に、知覚的経験(臨床的経験等)がほとんど無いこと、(従って、私の理解は真実とは言い難い。)あと、全体の理解を欠くと充分な個の理解は不可能なこと。特定の見解に片寄りがちのこと、等。私の実際の経験を具体的に簡単に記す。著者が理解困難とした症状で感情移入できるものもあったが、おそらく、他の類似例で理解したものを転用したのであろう。

最初不可思議に思われたものが段々に慣れてくるのは、比較と象徴化を介した理解の循環作用とでもいうのであろうか。その為には、文献の数をこなし、多くの違った学派のものを読むことをこころがけるべきなのであろうが、私の努力は明らかに不充分であった。理解した事項の転用は実際には困難であり、単純でわかりやすい症状に限られる傾向がある。新しい所見の確得と関連理解をくりかえしていくうちに、固定した心象をもつようになる。明晰なものを得ると、他の見解に対する批判も出来るようになる。私の解釈が当を得ているか、それとも曲解かは、専門家の通説との一致具合によるのだろうか。ちなみに単純だが信頼がおけそうで、且つ、明快な解説として、荻野恒一著、精神病理学入門の「幻声とまなざし」の項をあげたいが。第二の点についての釈明:分裂病の成因自体が不可思議なものであり、病因の一部分として、生活歴や得に家族内葛藤を重視する文献もあり、素因に帰して他を副次的なものとみ、軽視するものもある。病気の経過については豊富な知識を得られるが、病前性格、予後について精しく論じた文献は二、三しか得られなかった。

伝記的に追求した資料は少なくないが、私が得たもののうちで、最も内容の豊富なものは、ビンスワンガーの「精神分裂病」であった。但し、彼は特定の理念の観点から露骨に人間を探究しようとしているので、彼の解説を全面的に信頼することはできないが、部分的に参考にした。物語風の伝記(病誌)のうちで私が読んだのはヤスパースの「ストリントベルクとファン・ゴッホ」だけである。これは心理学的認識の為には役立たず、「人間存在の深み」を観取するには恰好のものであろう。要するに、分裂病の体験は価値的理解を必要とし、又、伝記的研究から断片的知識を得、成因と生活歴・要因等との関係は著者の見解に左右されざるをえず、病前、予後に関しては少ししか知識を得られなかった。けれども、部分的な知識や一面的な心象を現実の病者に対してある程度は摘応できるかもしれない、という気分だけはある。なお、私が種々に得た理解を含む包括的なものに触れるための資格について予め反省しておきたい。専門科は知覚経験を豊富にもっているから、彼の所与の所見が他の専門科の見解によって意味深く呈示される場合、それは彼の知覚経験によってもたらされた無意識が明確化したのである。了解により広がりと深化とを確得した無意識がどこまでつき進むかは、豊富な真実を基盤にもつ故に有意義であろう。

私の場合の無意識の明確化はほとんど想像により、事実に即したものとは云い難い。従って、精神病理学の内容を論ずる資格は無いというべきであろう。私はこの論文でヤスパースの見解を批評風につきつめるのであるから、両者を混同しないように注意しなければならない。ところで、私の立場が精神病理学にあるのでもなく、又、明白には私の経験の中にあるものでもない。それでは無用の論議だろうか。この論文には確固とした私独自の位置が据えられていない。私は空想的精神病理学の基盤の上にたっているのであろうか。私は乏しい知覚経験(観察)をもってはいる。しかし、無きに等しい。私はこの乏しい知覚経験を楯にしてこの論文を書くのである。従って結論の有用性は問題外かもしれない。私がこの論文の結論として提起した二つの問題のうち、一つは既に専門科によって主張されている。ちょっとニュアンスは違うが。他の一つは目下のところ私独自のものだと考えている。その内容の中核となる言葉は既に専門家によって独自の意味をもたせて(恐らく革新的な意味をもたせて)使用されているが、私はその言葉に少し違った意味をもたせている。とはいえ、有用性があるか無いかとは無関係である。

 さて、ヤスパースは了解できるものが越えることのできない意識外ののものについて、「それは肉体として我々を担っているものであるが、これはそれに具わる因果関連によって把握すべきものであり、形を与えられるべき素材であり、現存在可能性として掴むべきものであり、それに欠損があれば障害を蒙らざるをえないものである。」と述べている。私が本論で述べることは、このようなものにヤスパースが分裂病に関して、どのような具体性を与え、且つ又一方では、彼の了解的努力がどれほどの限界にまで進んだ結果の結論かをみようとするものである。


次ページへ>>

|| Page Top || Home || 論文1(序文) || プロフィール || E-Mail ||
Copyright 2001 Kazuya Honda. Maintained online by hkazuya@k-honda.com.